部 紹 介
部の歴史
御所工業高等学校ラグビー部は、1947(昭和22年)年に創部された。
当初はそれほどの活躍はなかったが昭和30年代に第1回目の隆盛を迎え、
全国ラグビーフットボール大会奈良県予選では3度の決勝戦に勝ち進むがいずれも強豪天理高校に敗れています。
また1967(昭和42年)にも決勝進出を果たすが天理高校定時制に17対14という僅差で惜敗に終わっている。
このように創部以来4度の決勝進出を果たすがいずれも天理勢に敗れています。
奈良県のラグビー史をひもとくと、正にその中心に位置するのは天理高校である。
天理高校は全国大会出場63回を誇りその内全国制覇6回・準優勝7回という全国に名だたる県内無敵の強豪である。
奈良県の公立高校勢にとってはこの天理高校を倒すことこそ花園の土を踏む第一歩なのであると思う。
私が御所工業高等学校に赴任したのは1989年4月で、その年に御所工業高等学校は御所市玉手に新築移転し校舎はもとよりその他の施設も真新しいばかりに輝いて、JR玉手駅が作られ、グラウンドもまだ使える状態ではなく秋津鴻池病院の前にある市民運動場まで通っていました。
赴任するまでの3年間、私は専門のラグビーを離れ、大淀高校でサッカーや陸上の指導をしていたこともあり、このような綺麗な環境でラグビー部の指導者としての第1歩を踏み出すことが出来ることが非常にありがたく、また新鮮に感じられました。
当時のラグビー部には3年生部員が2人だけでラグビー部としての活動はほとんど行われていなかった。スクラムマシーンは壊れたまま放置され2・3個しかないボールはひび割れてボール箱の中で埃をかぶっていました。2人の部員と共に部員集めを始めました。
根性のありそうな生徒や身体の大きな生徒、とにかく頭数を揃えようと手当たり次第に入部を呼びかけました。その結果新入生18人が入部してくれました。新入部員の中にはラグビー経験者は全くいなかったが、何とかラグビーチームの組める人数だけは確保できました。私と部員の奮闘が始まり初めは練習と言っても相手は未経験者ばかり、中には他のスポーツの経験すらない生徒もいました。
そこで「遊び」を基準とした練習を考え、ハーフエリア内での鬼ごっこやマスゲ-ム、ラグビーボールを使ったキックベースボールリレーなどを工夫した「遊び」の中から基本的な体力やチームワークを培いました。そして段階を追うごとに新しいルールを加え、「考えさせる」をテーマにし判断力や創造力を身につけさせ、主体的に動けるリ-ダ-をつくることを狙いました。3週間が過ぎる頃から少しずつラグビー部らしい練習を始め、試合形式の練習を行いながらルールや技術的なことを徐々に伝えていきました。この頃から頻繁に合宿を行い、合宿はチーム作りにとって非常に重要なことであり寝食を共にすることによって指導者と部員・部員相互の人間関係を深めることができ、それに部員達の生活習慣やものの見方・考え方を知る上でも最も効果的な手段であると思いました。この時私が行った合宿にはもう一つ別の目的があり「部員と共有の秘密」を作るということである。ラグビー部の人間しか知らない秘密を作ることで、監督と部員・教師と生徒という縦関係を超えた横の繋がりをつくりたかったからです。合宿は普通とは少し違っていて、学校側には内緒で行ったのです。今でこそ本校には宿泊施設の整った立派なセミナーハウスがありますが、当初はセミナーハウスが無かったため、他の合宿施設を借りるにも資金がないことから、学校の教室を使っての強行合宿をしたのであります。
他の部が終わり、職員が帰る頃まで練習を続け、秘密合宿が始まります。
教室の外には光がもれないように窓一面に新聞紙を張りつめた頃、部員が自然と小声になるのが非常に面白い!外に聞こえてはまずいという部員達の心遣いからであろう
それぞれが持ち寄った食料で食事を済ませ、部室に隠しておいた布団を教室の床に敷いて寝る、朝は職員が来る前に起床してグラウンドに出て練習を始める。
この秘密合宿を2、3日続けると私と部員の会話が減りアイコンタクトが増えました。やっと信用してくれるようになったのだろう、信頼してもらう為には時間がかかると思った。互いに要領よく合宿を終了した後は、何か完全犯罪を完了したような満足感を覚え、この時ばかりは私も部員も共犯者であり、1つのことをやり遂げた仲間であり、この秘密合宿を通してチームの雰囲気も和やかになり私と部員の関係もより親密になったように感じました。生徒一人一人の生活スタイルや性格など、普段の練習では見えないところまで知ることができました。大切な事は、技術や能力以前にまず「真心」だと考えています。つまり自分以外の人間に対して常に感謝の気持ちを持ってよい環境づくり「目配り、気配り、思いやり」を実践できるか否かということが、その選手のプレーにも現れてくると考えるからです。
私は当初から気遣いを部員達に徹底的に身につけさせるように心がけました。
ゴミ拾いや草ひき、その他様々な場面で利他的な心を育てることに重きを置きました。自分以外の人間に対する思いやりが、必ず自分自身の向上につながるのであると考えこれによって、部員一人一人が確実に変わったように思います。誰に対しても大きな声で挨拶ができるようになり、人間的にもおおらかさが出てきました。練習の中でもパスの出し方一つを見てもキャッチする人間に対する心遣いが感じられるようになった。一人一人ができることを惜しみなく出し合う。これがチーム作りの第一歩だと思います。1ヶ月を過ぎる頃になると、まだまだ荒削りではあるが一端のラグビーチームらしくなってきた。試合がしたいとか、もっと詳しくルールを教えて欲しいなどと質問してくる部員も出てきた。次の段階に進むために、天理高校の練習を見学させていただくことにした。天理高校については前に述べたが、全国に名だたるラグビーの名門でありラグビー部に練習参加のお願いをした。私の申し入れを快く受け入れて下さり週末になると部員達をつれてグラウンドへ行き、練習を見学させていただき私は、部員達に「日本一のグラウンドには何かが落ちている。何か一つでもいいから拾ってこい」と告げ、グラウンドの草むしりやゴミ拾いをしながら練習を見学させた。部員達は何かを盗もうと必死で見入っているようであった。 何よりも嬉しかったのは、グラウンドの隅で見学している部員を、練習に参加させていただいたことである。私はもとより部員達には大きな体験となり思えば出来たてほやほやの我がチームにとって天理高校は雲の上の存在である。一緒に練習が出来たことそれだけで部員達は幸せだった。素人集団だったチームも、いよいよラグビー部らしい練習がこなせるようになり、他校のチームと練習試合を組むことも多くなったが連敗の数を増やすばかりで、負ける度に部員達の士気が失せていくように感じられました。そこで部員達にとことん悔しい思いをさせて、逆に奮起させようと思い、中学生チームとの練習試合を組んだ。 高校生としてのプライドをかけた試合だったが、私の予想通り試合には敗れた。部員達のプライドはずたずたに引き裂かれ、悔しさのあまり涙目になっている生徒もいた。私は追い打ちをかけるように彼等をまくしたて「中学生に負けて悔しくないんか?悔しかったら真剣にやれ!」一週間後、部員達からリターンマッチの申し入れをしてくれという要望があり、再び中学生チームとの試合を行った。試合には勝ったものの、さすがに諸手を挙げて喜ぶ部員などはいなかった。その後他の高校のチームとの練習試合も頻繁に行ったがことごとく負けた、とにかく一勝しようと、さらに厳しい練習を続けた。迎えたその年の秋の県大会1回戦の相手は志貴高校である春には大差で負けたが8対0で勝利を収めることが出来た。二人の3年生にとってもこれが唯一の公式戦での初勝利となった。2回戦は天理高校二部に完敗したものの今回の一勝に涙を流して喜ぶ部員達を見てこの勝利の重みをしみじみと感じ部員達の練習にはいっそう熱が入った。
「やればできる」ということを身を持って知ったのだろう厳しい練習にも、泣き言一つ言わずついてくるようになったので、他社評価をうけるため、皆さんから注意してもらえるように大きな赤いエナメルバッグを所持させた、バッグには皆と共通のブランディングをつけさすためのエンブレムをつけた、御所市の花『つつじ』である。(学校の花は日本代表と同じ桜であったため)
私の考えは、誰から見ても目立つバッグを持たせることで他社評価を受けることであり、生徒は初めて共通のバッグを持つことで誇らしげで嬉しそうにしていた、その日が私と生徒との駆け引きのスタートだったように思えます。
翌年1月畝傍高校には負けたものの、部員達の士気は衰えなかった。次の大会に向けての練習を始めた矢先の1990年5月27日。天理高校グラウンドで行われた天理高校二部との練習試合中、二年生の北島弘元がスクラム中に頸椎を骨折した。初めてのスクラムトライを決めることができ、良くやったと誉めた直後のことだった。すぐに救急車で病院に収容されたが容態は思わしくなかった。私と部員達は毎日病院に通い、ひたすら北島の回復を願った。事故の翌日からラグビー部の練習は禁止され、一部では廃部の噂まで飛んでいた。練習の出来ないもどかしさの中で北島の復帰だけを一心に願い練習の出来ない午後の日、無心でやれば願いが叶うという回廊拭きを日が暮れるまでやった。
再び北島がボールを追えることを願って、膝が擦り切れるまで必死で拭いた。2か月後そんな私達の願いもむなしく北島は静かに息を引き取った。毎日一緒にグラウンドで汗を流し一緒に苦しみ笑い合った仲間が亡くなってしまった。私と部員達は悲しみにくれラグビーしか知らないで死んでいった北島を思うと涙が止まらなかった。練習禁止は続き、仲間を失った悲しみと練習の出来ないもどかしさで部員達の不満はつのる一方だった「勝たせてやる言うたやんか!」「花園へ行こう言うたやんか!ウソつきか?」部員達の言葉が士気を失った私を激しく打ちつけた。そんな時、助けの手をさしのべてくれたのは部員達の保護者だった学校側に練習再開を嘆願して頂いたのだ、亡くなった北島の両親も「息子のためにも」教育委員会に申し入れてくれました。簡単には許可は下りず空白の時間が過ぎさっていった。そんな状況の中でも、部員達はいつか練習が再開されると信じ、陰で密かに練習をするようになった。誰に指示された訳でもなく主体的に、校地内の草ひきやゴミ拾いをしている部員もいた彼等のひたむきな姿に、私自身も何か勇気づけられるものを感じた。やがて年が明けやっと7ヶ月ぶりに練習が解禁となった。これまでの遅れを取り戻すため部員達は練習に明け暮れ北島の事故以来ラグビーの危険性を目の当たりにした、ちょっとした怪我にも気を配るようになり体幹や首を鍛えたりして事故の予防にも努めるようになった。
迎えた近畿大会県予選では新調した黒地のユニホームで試合に臨みユニホームの左腕には喪にふくす為に白のラインを入れた。花園出場という北島との誓いの証でもあり部員達には、いつも北島と一緒だ・北島と一緒に暴れてこい!とグラウンドに送りだした。試合の勝ち負けより皆でその場にいることの大切さを学んだ1日であった。天理教校附属、畝傍高校を連覇し県決勝では天理高校に9-10と惜敗したものの近畿大会に出場することが出来た。御所工業高等学校ラグビー部としては41年ぶりの出場であり北島のためにも「必ず花園でプレーしよう」と、チームが再び軌道に乗り始め、県内のどの大会でも天理以外には負けることはなかった。
部員達は次第に自信をつけてきたが天理の壁を破るのは容易ではなかった。
平成3年からは毎年近畿大会に30年連続出場しているが、その天理高校に初めて勝利したのは、平成6年2月の近畿大会奈良県予選決勝だった。前日の大雪でグラウンドはシャーベット状になっていた。身を切るような寒さの中御所工フィフティーンは奮闘しフォワードの押しも良くバックスもいい走りを見せた。
その結果、24-5という好得点で天理に初勝利、1勝だけではまぐれといわれてしまうので何が何でも2連勝しなければならないそんな思いで臨んだ6月の新人大会天理は着実に力をつけていて必死でふんばったが、堅いディフェンスに阻まれ0-13と完封負けをしてしまった。秋の全国大会県予選準決勝で天理と当たったが、一度天理を破ったチームであるが勝つことだけを考えて試合に臨んだ結果は8-26の逆転負け花園の切符は目の前だったがまたもや逃してしまった。期待が大きかっただけに、部員達の落胆ぶりも容易ではなかった。
そして次の年の近畿大会県予選県決勝、新チームで臨んだ天理戦は5-50で惨敗すぐさまディフェンスを中心とした練習を増やし、6月の新人大会に臨んだその結果
17-14と勝つことができた。次につながる内容の試合であった5-50で負けたチームが17-14の試合が出来るまでに力をつけた後半戦、歯を食いしばって練習すれば必ず天理以上の力を出せると確信した。それから半年間は、部員達に常にプレッシャーをかけ続け、試合直前まで徹底的に俯瞰し部員達を鼓舞した。再び全国大会奈良県県予選、広陵・親里を下しいよいよ決勝戦の日を迎えた。
その前日は熟睡することが出来ず朝から何か落ち着かなかった。一人で北島のお墓にお参りし、力を借りるような気持ちで水差しの水をなめたら胃の痛みが不思議と消え去り張りつめていた緊張がゆっくりと落ち着きをとりもどすのを感じた。お墓に向かって一礼しそのまま競技場へと向かった。試合直前のロッカールーム部員達の顔は緊張でこわばっていた。「お前達に教えてきたことに嘘はない。自分を信じて、持てる力を全て出しきってくれ!」部員達にそう伝えて、ロッカールームを後にした。そしてキックオフ、選手の顔からはもはや緊張の色は見られなかった。前半2分、自陣ゴール前のラックからボールを回されいきなり先制トライを決められた。そのまま崩されるのではないかと心配したが、必死で食い下がった。15分に同点トライで食らいつき、その後、ペナルティーキックを決められたものの5-8で前半を終えた。
ハーフタイムでは、守りに回らず、徹底的に攻め続けるように指示を出した。後半戦スコアを与えたものの、部員達は必死で耐えつつ攻め続けた31対15のダブルスコアでロスタイムに入った。「勝ちを意識したとき」それが一番危険なときだ最後の最後までわからない。最後まで耐えてくれ。その一心で彼等を見守った。そしてノーサイドの笛が競技場一杯に鳴り響いた。一瞬、頭の中が真っ白になったがスタンドから上がる大歓声を聞き部員の泣きながら飛び上がる姿を見て改めて勝利を確信した。それまでの7年間の様々な場面が一つ一つ脳裏をよぎった。全国大会初出場をはたした記念すべき1日であった。
次の年部員達はいい思い出を受け継いでやりきったが、連続出場することはなかった。
平成7年に初出場を経験した一年生が3年生になり全国の頂点を目指そうと切り替えて、平成9年二回目の花園出場を決めた。その当時、大柄な選手が多く、享年34才で私より先に他界したPR千巌(京産大→セコム)・日本代表主将NO8菊谷(大体大→トヨタ)・早明戦で5トライ奪うWTB西辻(早稲田→リコ-)全国ベスト8以上を狙えるチームであった。このチームは3年生が少なく2年生中心のチームで次の年は日本一を狙える年であった。その後セブンス大会では全国3位になり、菅平での練習試合は全勝し全国への確かな手ごたえを感じていた。迎えた全国予選県決勝ではトライが認められないシーンが多く部員達はストレスを感じ、実力を出せないままノーサイドを迎えた。人間性がもろに試合に出た試合であった。花園連続出場を果たそうと部員と共に努力したがなかなか天理の白い壁を破ることはできなかった。平成12年に近畿大会ベスト4に入り選抜大会への期待は膨らんだが、選考基準にもれ推薦されることは無かった。平成13年は近畿大会で大工大(現在の常翔学園)にゴールキックの差で負けてベスト8に終わった。また奈良県決勝では史上初めてのノートライゲーム(3-6)で勝たなければいけない試合を天理に敗れた。この時期から勝つ為に言葉探しが必要だと思うようになった。平成15年には3回目の全国大会出場を果たし、西のBシードに選ばれたが結果はベスト16で終わった。
この大会を境になぜ勝てないのかを考えるようになり原点にふり返ってみた。
忘れていた秘密合宿!寝食共に!生活の中にヒントがあることを思い出し、家に生徒を入れるようになっていった。
まずはご飯を規則正しく食べさすこと睡眠をとらすことから始めた。ライフマネ-ジメントである!日常の当たり前のことを当たり前にするということで日常の中からヒントをもらうことである。だんだん家族になることで信頼関係が作られる、信頼の束になると少しずつチームワークが生まれてくるように思う。88回全国大会初の準優勝に輝けたのも、小柄な生徒ばかりであるが人の3倍以上動かないと役割を果たせないことと、トリプルアクション・DFの指導を続けてきた結果5年連続で全国大会出場を果たすことができ(88・92・94・99)回大会、4回準優勝することができ
ベスト4に(91・96)回にやりきらす試合ができました。12回代表として聖地花園で立つことができたことは今年の生徒にも勇気を与えている。昨年3月の近畿大会・選抜大会で練習してきたことを表現できた。その結果全国大会の決勝まで戦えた今までやってきたことが間違いではなかったということを証明できた。今年のコロナという条件を取り入れ、いい準備といい環境をつくり、花園で一番長く、闘い続け日本一に少しでも近づけてみたい。常に目標を持ち続けそのまま向上心に繋がるのだと思います。20年前の御所工業ラグビー部にとって、天理はとてつもなく大きな壁だったが幾度となくはじき返され、乗り越えてもまた押し戻されそんな繰り返しの中で御所工業は着実に成長することが出来てきた。常に私が部員に言い続けたのが「こだわること」である。常に他と違うことを心がけて実践してきた当たり前の練習にプラスアルファを付加えることに気をつけて、人が気付かない所に目を向けようとする態度と人の何倍も働こうとする積極性・人のことを考えてやれる思いやりとゆとり、どれもこれも人間としてスポーツをする人にとっては大切なことばかりであると思う。無名の公立高校が私学に勝つためには人間の偏差値をあげることと、主体的なリ-ダ-をつくること、そして地域の人に育ててもらい、他者評価を頂き成長させる事と思っています。人材・設備・資金どれをとっても決して私学には勝てない、悔しいがそれが現実である。部員には大切なことを身につけさせること(躾・マナ-・挨拶等)であり、私の指導の目標は『恕』という言葉です。好きな言葉は常に「本氣」です。今後も日本一を目指してこだわりのラグビーを実践していきたいと思います。生徒に意識させていることは、都合のいい大人にならない・ム-ドの読める大人になることを目指し「うまくいかない時にこそやりきる」「小さなミスを大きなミスにしない」である。最後になってしまいましたが、今日の御所実業ラグビー部が有るのは、これまで練習はもとよりあらゆる面でお世話いただいた地域の方・保護者・OB、ラグビー関係者の方々の温かいご支援が有ってこそだと感謝しております。「日本一」という夢を叶えるために、今後も部員達と日々精進してまいりますので、これからもご指導ご教示いただけますようよろしくお願い致します。
令和2年7月26日
2008年~2020年
この12年間(第88回~99回全国大会)を通して9回出場の内、ベスト4以上が6回という成績を収められたのも、御所東川市長様、県議川口様を始め東風の会のおもてなしのサポ-トや株式会社鍛冶田工務店、代表取締役鍛冶田様の応援を頂き、幸いにも寮をお借りすることができたからです。
さらに県から人工芝・リカバリーバス・全国生徒募集といった多方面における皆様からのお力添えを賜り、素晴らしい環境を作って頂いたことと、保護者・OBや目に見えない人のお蔭があり、応援や協力・支援があったからです。この場をお借りし御礼申し上げます。
大会を隔てて生徒と共に考えた事や様々な人に教えて頂いた事を言葉に変えて送り出しました。
『 Stay in the present。』
(ミスして過去いかず、結果を求めて未来に行かず)
『 One at a time。 』御所市長さんから
(生涯にない究極の時間を楽しむ)
『 百折不撓 』宇陀市教育長 福田裕光さんから
(どんな困難にも屈しない。百遍倒れたら百遍立ち上がる)
現在も脳裏に焼き付きついて、忘れることのない全試合の中から特別な4試合があります。
* 81回大会奈良県予選決勝 対天理高校 3-6 ノ-トライ試合
* 88回大会準決勝 対京都成章 3-0 ノ-トライ試合
* 94回大会3回戦 対慶応義塾 19-14 ロスタイムで逆転されノーサイド寸前で逆転。
ノーサイドの笛が鳴った瞬間、雪が舞い散りました。
* 97回大会奈良県決勝 対天理 21-19 後半16分まで19点差ここから3トライ逆転。
いくらいい準備をしても、高校スポーツにおけるゲームの怖さを教えられました。
近年、僅差で二度敗れはしましたが最後まで諦めずにやり切ることができました。
必ず将来に繋がることと信じています!
第93回奈良県決勝 15-12
第95回奈良県決勝 6-5
この12年間で取り組んできたことは
いい準備
いい環境
いいモデル
いい将来
将来に繋げることで少しでも大人に近づくことを目指し日々の生活にコミュニケ-ションスキルを高める為に、理解させ、アウトプット(発信)させるように努めてまいりました。
例えば、注意されたら直ぐにアウトプット、ミスをすれば仲間が助け合いサポ-トをする。
皆がチ-ムの一人ひとりを知ることをポイントに置きチームの文化を作り上げてきました。
指導するための3段階の人間性
1 ・言われてもやらない(落ちているゴミがみえない)
2 ・言われたらやる(落ちているゴミはみえるけど拾えない)
3 ・言われなくとも自ら考え行動できる(落ちているゴミを自然に拾える)
自発的に自立的に行動できる生徒を沢山作るには一年間の中で相応の投資が必要である、まず生徒の良さを知ることから始めています。一年毎に代わるチ-ム作り、人間の本質を追及しなければ追いつかない。目に見えないポイントをどれだけ落とし込めるか。毎日の生活や練習の中で、如何に理解してアクションができるか。試合をする相手ではなく、毎日の自分との行動の闘い!
目指すべきこれらの文化が出来上がりつつあるように思えるこの12年間だったと思います。
読売TV・ガリゲル(繋がり・繋がる)という番組でラグビーを通じて売れない芸人にヒントをあげるというシナリオで高校生活のモデルとして取り上げて頂いている。
近年取り上げて頂いた番組が下記のようにあり、他者評価を受けることにより成長出来る環境があったことで幸せを感じております。
*読売テレビ ガリゲル(繋がり・繋がる)
*BS朝日 ワイルドな奴
*TBS バースデイ
*JSPORTS ドキュメンタリー THE REAL
部内でのスタッフ
運営・全体指導 竹田先生 中谷先生
全体指導・下級生指導 久常先生 津本先生
総務 吉川先生 安田先生 古賀先生
外部コ-チとして
FW1列担当 久樹コーチ
BK指導 山下コーチ
チームコーディネーター 二ノ丸コーチ
ウエイトトレーニング指導 野沢コーチ
チームドクター 田中ドクター(大阪第二警察病院)
メディカルトレーナー 横井さん 瀧本さん 前田さん
このように内外のスタッフでの情報交換を生かしながら、生徒と共に学ぼうとする姿勢を持っており、同じ目標を持って生活をすることによりおのずと結果がついてきてると思えます。
良い文化を継承するためには地域に貢献し、他者評価を受けながら公立学校のモデルとして精進してまいりたいと思います。
今後ともご指導、ご支援の程を宜しくお願い致します。
令和2年7月16日
御所実業高校ラグビー部 監督 竹田 寛行
ひとりひとりを、どう本氣にさすことができるか
~仲間とともに「夢」を「現実」に近づけるか~
奈良県立御所実業高等学校ラグビ-部 監督 竹田 寛行
私は平成元年に本校(当時、御所工業高等学校)に着任して部員2名のラグビー部の
監督を引き受けました。練習に使えるボールは無く、生徒と一緒にグラウンドに砂を
まきながらゼロからの出発でした。そんな当時のことを振り返ると部員がいないこと
や道具に不自由したことよりもただ「ラグビーを教えられる」という新鮮な喜びに満
ちた日々のことが思い出されます。毎日の指導を通じて生徒とふれあい何か変化があ
ると純粋に喜びを感じることができたように思います。理屈ではなく同じ時間や空間
を生徒と共有することで色々なことを学ばせてもらったと思います。試合に負けた時、
選手達が泣いて悔しがっているあの涙を勝利に変えるためには、何をするべきか必死に考えました。彼らが流した悔し涙が私に多くのことを教えてくれました。初めて奈良県高等学校ラグビー部顧問会議に出席した時「おまえは部員2人で本気で花園狙ってんのか!」と言われ悔しくて情けなかった自分を思い出します。あの時本氣にならなかったら全国準優勝には繋がらなかったと思います。言葉にしろ行動にしろ、何か一つきっかけがあって自分を本氣にさせ、諦めずに目標を達成させようという気持ちを持続させることが結果に繋がったと思います。私は夢とは近づけるものであり、掴むものだと信じています。
毎日の練習を理解させて持続していれば必ずチャンスが来ると信じています。何故なら今までのOB達が多くの経験を通じて積み重ねてくれた失敗や成功の上に、今の御所実業高等学校ラグビー部のスタイルができあがったからであり、真剣に勝ちたいという思いを強く持ち続けることで必ずチャンスが来ると今も私は信じています。
「本氣」という言葉の中には「努力、協力、質素」という三つの要素が含まれています。
その要素のバランスがとれたとき、初めて周りの人に認められ、チームも機能するものだと思います。試合の勝ち負けだけでなく人格形成(純粋で素直に人の話を聞く態度を養い、言われたことだけでなく、自ら考え臨機応変に対応できる判断力)を私は重視しました。こうした指導の柱となっているのは部員を「リスペクト・尊敬」することであり私の役目は、生徒個々の個性を引き出し伸ばすことです。「良いポイントを引き伸ばし、スペシャリストを創ること」と現在活躍している菊谷崇選手(キャノンイ-グルスOB 元ワールドカップ日本代表チーム主将)、大学選手権3連覇の立役者となった森田佳寿選手(東芝ブレイブルーパス主将OB、元帝京大学ラグビー部主将)などの数々のOB選手達に言い続けました。
やりきる為には結果だけではなく、
そのプロセスが大事で、たとえ優れた
能力をもった人間が集まっても価値観
を共有することができず目的追求に対
して同じ動きができなければ強い集団
にはなれない!
1人でなし遂げる夢も素晴らしいこと
ですが、仲間と共に力を合わせてなし
遂げる夢には何とも言えない魅力を感じます。
仲間と共に挑むものがあることで、一人ひとりがより高い能力を発揮できると思います。
ラグビーというスポーツは、(絶対ということはないが、絶対ということ)を信じ信頼・責任を養い、リ-ダ-性があり【人に伝える、伝わる】コミュニケーションとの駆け引きのスポーツです。チームのコミュニケーションが確立した時、初めて全国制覇に近づけることができると思います。
また優勝できなくとも必ず将来に繋がり、コミュニケーションの力が人の上に役立つ時代が来る、その為には毎日の生活を《当たり前のことを、当たり前にできる》積み重ねることでゆとりができ、一番何もかもが上手くいかない時、逃げださないでやり切ろうとする事で自然に笑顔が生まれてきます。
人生を生きていく上で本当に大切なことは、周囲に目を配りつつ、人の気持ちを思いやりムードを読むことが出来多くの人達とコミュニケーションをしていく事と、周りの人に育てて頂けるような環境づくりだと思います。
ラグビー部の指導を通して(いい準備・いい環境・いいモデル・いい将来)生徒の育成が挨拶などの規範意識の向上・清掃活動、学校行事における生徒の取組の活性化という形で学校全体にも広がっており、他者評価を大切にしていき、ラグビーを通した地域での青少年の健全育成・市内の保護者との連携の他、多くの人にサポ-トをして頂き、今後も学校内外での育成を大きな課題として地域一体型の努力を行い、様々な人に育てて頂き一人ひとりの将来に繋がるようなチ-ム作りをしていきたいと思っています。